長崎で新たなモデル事業開始へ
高齢化社会が進んで犯罪者も高齢化が顕著となっており、従前なら刑事政策課題にはならなかった福祉的アプローチを再犯防止策に組み込む流れができつつあります。単に高齢だから受刑者にも社会福祉が必要だということではなく、高齢化と犯罪が密接に関連していて、もはや福祉的アプローチを加味しないと再犯防止を実効化できないところまで来ているのです。
法務省は、知的障害またはその傾向がある受刑者にかかるモデル事業を2022年度から長崎刑務所において開始することを明らかにしました。
受刑終了後の福祉的な支援と連続性を持つ処遇の試行を趣旨とするこの新たな取り組みについて、代表弁護士・中村勉が考察します。
概要
2021年末に法務省が発表したモデル事業の計画は、知的障害およびその疑いがある受刑者を対象としたもので、近年懸案となっている知的障害を持つ人による累犯を防ぐことを目的としています。
報道によれば、法務省矯正局は2022年度から5年間、長崎刑務所における試行として、福岡矯正管区(九州および沖縄)から50名程の知的障害を持つ受刑者(知的障害の疑いがあるとされた者も含む)を集め、刑期終了後の福祉的な支援実施を考慮した一貫型の処遇を実施するとのことです。
具体的には、知的障害に関する専門的な知見・ノウハウを有する民間の福祉サービス事業者(社会福祉法人等)や地方自治体と連携しつつ、対象となる受刑者の個々の能力、事情に配慮した処遇計画を策定し、社会復帰後に安定した生活が実現できるよう指導を行うという方針のようです。加えて、刑期中の療育手帳の取得や、出所後の支援機関への引継ぎといった手当ても講じられる模様です。
知的障害等を持つ受刑者の現状
2003年に出版された山本譲司氏の「獄窓記」が注目を浴びて以来、知的障害等を持った人による犯罪への対処が社会的な課題として度々議論されるところとなっています。ところで、全国の刑務所の受刑者のうち、知的障害を持つ人の割合はどれくらいになるのでしょうか。
たとえば、2020年の法務省の統計(矯正統計)をみると、自由刑(懲役、禁固等)の受刑者のうち、知的障害を持つ人の人数は297名とされています。受刑者全体(約1万6千人)の約1.7%であり、近年この数値に大きな変動はありません。
この数値はさほど目立つものではないように思われますが、法務省の統計は「知的障害がある人」についてやや厳格な独自の基準を用いて判断しているということは留意すべきでしょう。これに関し、国際的な医療分類を定めているICD-10においては、概ね「IQ70未満」を知的障害の診断基準としているところ、前記の矯正統計からは受刑者のうちIQ70未満に相当するとされる者の人数は1889名(約19.9%)であることがわかります。
これを絶対的な数値とはみなせないものの、少なくとも能力的に配慮を要する受刑者が法務省の正式発表よりも多く存在する実態が想定されます。
知的障害等を持つ受刑者の更生の難しさ
知的障害を持つ人は福祉サービス等の適切な支援がない場合、社会的に弱い立場に置かれやすく、所持金を使い果たす等の生活苦から犯罪に及ぶケースも散見されます。
知的障害を持つ受刑者も、刑期終了後に必要な支援を得られずに孤立してしまうと、ほどなく再び生活苦に陥り、再犯に及んでしまう危険が高まります。実際にそのような経緯から累犯に至る人は少なくなく、2006年に「刑務所に戻りたかった」という動機から惹起された下関駅放火事件はかかる実例として最たるものの一つと言えるでしょう。
触法障害者の支援をめぐる最近の動き
2009年頃から、罪を犯した知的障害等を持つ人、すなわち触法障害者の立ち直りを支える取組みが全国各地で始まり、特に長崎県では民間組織である南高愛隣会によって全国に先駆けて知的障害を持った刑務所出所者への支援(出口支援)が開始され、この動きは現在では「特別調整」という全国的な制度となるに至っています。
特別調整とは、高齢または障害を持った身寄りのない受刑者の出所後の速やかな生活安定をフォローアップするものであり、地域生活定着支援センターという民間組織が矯正施設と地域・民間の機関(出所後の支援者)を仲介し、出所した元受刑者を孤立させない支援を企画調整します。
さて、今回実施される法務省のモデル事業は、上述した知的障害を持った人の犯罪にまつわる従前の民間・地域主導のアプローチを推進する施策といえ、国の機関である刑務所が外部の民間機関等と一層の連携を志向する前例のない動きであると評価できます。既述のとおり長崎県では予てから先進的な取組みが実施されていましたが、法務省が今般のモデル事業を長崎刑務所で試行するとしたことも偶然ではありません。
今後の展望
法務省の報告によれば、特別調整等の取組が本格化する一方で、刑務所内での知的障害を持つ受刑者の処遇は困難な点が目立ち、全国の刑務所は各々独自に試行錯誤しているのが実情のようです。また、特別調整についても様々な課題の存在が指摘されています。モデル事業における集中的な試行実践と評価・検討によって、かかる取組み、制度が更に洗練されることが望まれます。
法務省はモデル事業の経過を踏まえて全国の刑務所に適用する制度の策定に臨むとしていますが、このような「触法障害者の生活環境の安定をもって再犯防止を実現する」というアプローチの本格化は、刑務所のみならず、おそらく検察庁や裁判所にも、従来に増して影響を及ぼすものと思われます。かかる動向が知的障害等を持つ人以外についても波及し、罪を犯した人を罰して終わるのみならず、更生すなわち再犯防止に際して具体的に有効な施策が刑事司法全体において考慮され、社会でも理解を得られるようになることが望ましいのではないでしょうか。
今後の刑事裁判への影響
弁護人の立場からすると、知的障害を持つ人の弁護活動では、当該知的障害の程度はどれくらいで、それが犯行のどのような影響を与えたのかといった点を検討し、犯行当時の責任能力を争えないかということを考えるのが自然です。刑法は、責任能力が全くないなら罰することができず(心神喪失)、著しく減退しているなら減軽する(心神耗弱)と規定していますから(39条)、不起訴、無罪、減軽を目指す弁護人にとって、責任能力の有無・程度に高い関心を持つのは当然のことであり、検察官・裁判官の立場からしても看過できません。
しかし、責任能力の評価はあくまで犯行当時の被疑者・被告人の状態だけが問題となり、犯行後は障害が回復しても悪化しても問題となりません。そのため、犯行後の被疑者・被告人の状態については、法曹三者誰もが無関心であるというという事態が平然と起きているように思います。有罪か無罪か、有罪なら刑の重さをどうするかを決めるのが裁判の目的であるとはいえ、再犯防止に努めることは我々法曹三者一同の責務であるはずなのに、裁判の場では平然とないがしろにされている現状には違和感を覚えます。
責任能力を争わなくとも、治療の必要性を訴え、刑罰ではなく治療を優先すべきと主張することも、弁護人の立場からよく用いられる手法ですが、正直に申し上げれば、検察官・裁判官に響いているという実感が得られることはまれです。結局これも、行為責任という刑法の原則に従っているだけと言われればそれまでですが、やはり再犯防止という責務を放棄し、本質を見失って漫然とした求刑・判決がなされているという印象が否めません。
今回のモデル事業が、こうした現状を打破し、法曹三者一同が再犯防止という観点で裁判のあり方を見直す一つのきっかけとなることを切に願ってやみません。